コンパクト化していく現代のお墓
昨年は義父が亡くなったので義母とともにわが家もお墓についていろいろ考えることがありました。最近は先祖代々のお墓というよりは、樹木葬などコンパクトなお墓に夫婦や個人で眠るのが主流かと見受けました。私も夫の家族のお墓に入る可能性もあるんかしら。あの縁もゆかりもない土地で眠るのか??
そんな折、『近畿の古墳と古代史』(白石太郎 著、学生社)
を読みました。私にとって興味深い内容だったのは、磯長谷(しながだに)古墳群の敏達天皇の合葬についての記述でした。
前方後円墳の終焉の謎
磯長谷(しながだに)古墳群は大阪府南部にある古墳群で、宮内庁が治定する天皇陵4基(30代敏達天皇陵、31代用明天皇陵、33代推古天皇陵、36代孝徳天皇陵)と聖徳太子廟を含む古墳群です。
あの鍵穴型の前方後円墳の造営が終わる時代の古墳群にあたり、敏達天皇までが前方後円墳ですが、用明天皇以降は方墳(四角形の古墳)や円墳にシフトチェンジしていきます。ちょうどヤマト政権が仏教を取り入れていく時期と重なっており、神仏習合の観点からもすごい興味深い古墳群です。
この本で提起されていたのは、敏達天皇はもともとあった母(石姫)の墳墓(太子西山古墳)に葬られたのであって、天皇でありながら自身のお墓が造られなかったことでした。
夫婦合葬は渡来人の文化だった
敏達がなぜ母の墓に合葬され、自らの墓を営まないのかはきわめて興味深く、かつ難しい問題である。奈良時代以前の歴代の大王で、大王が自らの墓を営まずに母の墓に合葬された例は少なくとも史料上ではまったく見いだせない。
(中略)
古墳時代の倭国において、基本的に夫婦の合葬は行われていなかった。本来の日本の古墳では血縁関係、同族関係を原理としており、五世紀後半以降にならないと配偶者の合葬が始まらない。おそらく夫婦合葬は渡来人の風習だった。
『近畿の古墳と古代史』(白石太郎 著、学生社)より抜粋
なるほどなあ〜。
この頃の古墳は横穴式石室が発達したので二、三人まとめて合葬されているのです。聖徳太子は母と妻と三人で合葬されたと伝えられています。(聖徳太子の父である用明天皇は一人で春日向山古墳に眠っているとされます。)
推古天皇も息子である竹田皇子の陵(山田高塚古墳)で一緒に眠っています。竹田皇子は成年になる前に死去しています。そらなあ、母としては一緒に眠りたいんちゃうかな、と想像するわけです。とはいえ、推古天皇の夫である敏達天皇が先に母親と合葬されてるわけだから、その流れで推古天皇も息子と合葬される流れになったんだろうか??
勝手な感想ですが、「母と子で眠るお墓」のほうが、私としてはしっくりくる気はします。まあ、これは私がまだ幼い息子をもつ母親だからこその感想なのかも。これから息子が反抗期になって家を出て立派なおっさんに成長し、夫婦で過ごす時間が長くなったら夫と同じお墓で眠りたいと思うやもしれませんが。
※アイキャッチは磯長谷古墳群の近くにある「近つ飛鳥博物館」の仁徳天皇陵の模型です。
●まとめ
日本の古墳時代には「母子で眠るお墓」の時代があった。
●課題
「妻が夫の家のお墓に入る」感じはなんかモヤモヤした違和感があります。たぶん家父長制がなんかモヤモヤするんだろうな。。本来の私たちはそうではないはず、って気がする。