国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』で
明治時代から議論されていた
田舎暮らしか? 都会暮らしか? リモートワーク化が進んだこの頃は、このテの議論がますます身近になってきたように感じます。最近もテレビ番組「しくじり先生」で大鶴義丹さんが北海道に移住したけど3ヶ月で東京にもどってきた話をしておりました。
そこで思い出したのが『牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)』という明治三十四年に発表された国木田独歩の小説です。そのメインテーマは、「理想に従って馬鈴薯を育てて生きるか、都会で現実と格闘して牛肉を食べるか」。
舞台は明治倶楽部という西洋づくりの食堂の二階。6人の男たちがストーブを囲み、酒を飲みながら談笑しています。理想に燃えて北海道に移住したが「馬鈴薯より牛肉のほうがウマイ」と言って炭鉱会社の社員になった者、あるいは、「僕は好きで牛肉を食う、主義でもヘチマでもない」という者など、いろんな人生観が飛び出します。そこへ遅れてやってきた岡本という男が、自身の恋愛譚を語った後に、人生観をぶちかますというあらすじです。
(以下、ザックリと『牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)』の紹介)
岡本という男の人生哲学
「びっくりしたいというのが僕の願いなんです」
「僕らは生まれてこの天地の間に来る、無我無心のこどもの時から種々な事に出あう、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここにおいてかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となってしまう」
(中略)
「僕の願いはどうにかしてこの古び果てた習慣(カストム)の圧力から脱れて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、はた厭世の徒となってこの生命をのろおうが、決してとんちゃくしない!」周囲の反応「なんだそれ!(笑)」
岡本「ですよね、ハハハ(汗)」
6人のうち1人だけが、岡本の顔に言うべからざる苦悩の色を見てとった。
「感動できるかどうか?」が
自分の判断基準になった
私は中学生の頃にこの小説を読んで、以来、よくこのテーマについて考えていました(で、大学の卒論はこの小説で書きました。論文と呼べたものではなく、長大な読書感想文を書いてしまったと、今では反省しております。ハハ)。
そして岡本が言うほどの大いなる驚きではなくとも、「感動する人でありたい」と思うようになりました。少しでも多くのことに感動したいし、感動するために生きたい、と。
感動することは田舎でも、都会でもできます。
山の頂上に登った時や、季節の移り変わりを感じた時、
この秋初めて金木犀の香りに気がついた時。
ベランダで育てていたアサガオが初めて咲いた時や、
シェフの一皿が美味しすぎるとか、
セレクトショップの洗練された空間や、
美術館やギャラリーの展示に感動することもあります。
カーラジオからふと流れてくる音楽や、図書館で借りた本に感動することもあります。
お金がないとできない感動もあるけど、
お金がなくても感動できることだって、
じつはたくさんあると思います。
雲間から青空がのぞき見えただけで
感動することだってあるわけですから。
この小説は私の考え方にかなり影響を与えたと思います。
多感な時期に読んだからかもしれませんが。
じつはムチャクチャ影響を受けている本や小説、あなたにもありませんか?