2人のアーティストの作品がなんか似てるな、と思ったら、その2人が友達だったかとか、互いに影響し合っていた、ってことはよくある話だと思います。ただその2人の関係を知らずに、純粋に作品から共通する何かを感じとっていた場合、「なかなかいいセンいってるな」と自分を褒めてやりたい気持ちになりませんか? マア、そんな話です。
初めて柳田國男の『遠野物語』の序文を読んだ時、先日このブログに書いた国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』と共通する何かを感じとったのです。とくに以下の部分。
思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にしてさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願くはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。 ー柳田國男『遠野物語』の序文
その後、柳田國男と国木田独歩が青春時代の友人だったことがわかり、この二人に共通する空気感は偶然ではなかった、と思いました。
彼らの交流について、柳田國男の『故郷七十年』に多少の記述があります。
柳田國男が18歳の頃、歌人の松浦辰男に入門して田山花袋と知り合いました。その後、柳田國男21歳の頃(1896年)に田山花袋を通じて国木田独歩と知り合ったそうです(国木田独歩は25歳、田山花袋は24歳くらい)。
1897年には国木田独歩の発案で柳田國男、田山花袋の3人をスタートメンバーとした詩集『抒情詩』を発表したり(最終的には6人で出版)、1902年頃は月2回ほど土曜日に集まって談話会をしていたらしい。この会の黒幕が国木田独歩だったとか(ブレイク寸前で調子がいい田山花袋への不満をぶちまける会でもあったようですね。。)。
以後、田山花袋は1907年発表の『蒲団』で日本の自然主義文学の代表格としてブレイク。独歩は1908年(37歳)に肺結核で死去。柳田國男は1910年、35歳で『遠野物語』を発表します。
青春時代の友人という気安さももあってか、柳田國男はその後の田山花袋について「文士の身辺雑記にとどまっている」と批判しています。
いっぽうで、柳田國男は国木田独歩へのリスペクトがあったのではないでしょうか。独歩の五十年忌には柳田國男らが中心となって武蔵野市内の桜橋のたもとに国木田独歩文学碑が建てられています。
で、何の話だったかというと、なんか似てると思ったら知り合いだったという人たちの話です。
最近、息子がピアノを習い始めてから「シューベルトとベートーヴェンが好き」と言い出しだのですが、シューベルトはベートーヴェンをリスペクトしていて、病気のお見舞いに行ったり葬式に参列したりしていたそうですね。息子なかなかいいセンいってるやんと。
無意識に共通点を見出していたこと、あなたにもありませんか?