爆発的エネルギーのタネあかし的写真集
1957年から63年にかけて、岡本太郎は何かに憑かれたようにカメラを持って日本全国を旅しました。それは青春時代をパリで過ごした彼が足元の日本を発見する試みだったそうです。その頃に撮影された写真ネガを写真家の内藤正敏(写真家)さんがリプリントし、岡本太郎の言葉とともに綴った写真集が、『岡本太郎 神秘』(二玄社)です。
大阪中之島美術館での『展覧会 岡本太郎」に『岡本太郎 神秘』の展示もあるらしいので終わるまでに行こうと思っておったのですが、どうも風邪気味だったので美術館行きはやめることにしました。10月2日までだからもう行けそうにないな。。代わりに図書館で『岡本太郎 神秘』を借りてじっくり読むことにしました。これが今日の自分にはとてもマッチしていたと思います。岡本太郎の作品はすごいエネルギーがあるので、体が弱っているときには受け止めきれなくて疲れてしまうのです。
この写真集は、いわば彼の作品の素材そのもの。岡本太郎の爆発的エネルギーの源はここにあったのか!と気づかせてくれるとともに、岡本太郎の作品に施された目も眩むような魔術の存在をも浮き彫りにしてくれます。きっとそれは彼のパーソナリティが成せる技なのでしょう。
とはいえ、私には魔術が施される前の素材のほうがしっくりくる。そういえば、横尾忠則についても、絵画よりも「Y字路」みたいなシンプルな作品のほうが好きなので。
心に留めておきたい言葉と感想
覚えておきたい言葉があったので、『岡本太郎 神秘』(二玄社)より幾つか書き出しておきたいと思います。
現代人が、自動車やテレビなしには生活できないように、かつて人は神秘の世界の重みをたしかめなければ生きられなかった。
芸術は呪術である。
人間生命の根源的混沌を、もっとも明快な形でつき出す。人の姿を映すのに鏡があるように、精神を逆手にとって呪縛するのが芸術なのだ。
浄は神聖であるが、不浄は不吉な神聖なのである。
浄が神的であるならば、不浄はあまりにも人間、その暗いヴァイタリティーにかかわっている。
(感想)
人間って、そういうとこあるよね。
恨み、憎しみ、妬みなど、マイナスのエネルギーも、もってますわなァ。
でもそのマイナスのエネルギーをプラスにできる人もいるから、人間はよくわからない。
戦慄的な二重性にこそ神秘が現出するのだ。
(感想)
これがわかりそうで、難しい。
下の引用部分とも関係していると思うんだけど。「ひろがった世界」に対する「とざされた自分」。そもそも人間には二重性があるよな、と思う。もしも私がつねに神秘を感じて生きていけるのなら、苦悩しないし、こんなブログも書かない。
現代社会は、神秘の世界を忘れていても、わりと問題なく生きていけるんだろう。
でも私には神秘の世界が必要だ。
でもそればかりだと世捨て人になりそうなので、
ある程度バランスをとっていかないとな、ってのが今の所の私のスタンス。
まとめ
「展覧会 岡本太郎」は大阪中之島美術館は2022年10月2日まで、2022年10月18日~12月28日は東京都美術館、2023年1月14日~3月14日(予定)は愛知県美術館で巡回予定です。この写真集を一度じっくり読んでから足を運ぶとさらに味わい深くなると思います。
※長い引用になったので、時間がある方はおつきあいください。
『神秘日本』岡本太郎 からの引用
われわれは世界内の自己である。人間としてものを考え、自分を意識するとき、いつでも世界、自分を対立概念として考え、とらえるのだ。つまりこのひろがった世界に対して、とざされた自分。 それは当然、日本人としての自覚をふくむ、世界に対しての存在感である。
今日のように世界が生活的に極大概念であるかぎりは、「民族」は一種神秘的な生気を保ちつづけるに違いない。マクロコスモスに対する、ミクロコスモスの必然である。
ナショナリズムだとか、民族主義などという観点からでなく、もっと肉体的に自分の神秘、その実態を見つめなければいけないと私は考える。世界における同質化、ジェネラリゼーションが拡大すればするほど、逆にパティキュラリティーも異様な底光りを光らせながら生きてくるような気がしてならない。
民族は固有の暗号を持っている。同質の生活的感動、いわば秘密のようなものだ。それによって、言葉なくお互いが理解しあう。それは隣人愛だとか同胞意識などというような、単純な枠で割り切れない、もっと繊細であり、根深い神秘なのだ。