日本最古の道、山辺の道を歩きたい
奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)に行ってきた話の続きを。石上神宮は日本最古の神社のひとつで、古代豪族・物部氏(もののべ し)の総氏神として古代より信仰されてきた古社です。そして石上神宮の境内の南から大神神社(おおみわじんじゃ:奈良県桜井市)まで山の麓を走る道が、日本最古の道と呼ばれている「山の辺の道」です。
『古事記』にも崇神天皇(第十代天皇で4世紀頃に実在した可能性がある最初の天皇といわれている)の御陵(みはか)が「山の辺の道」のほとりにあるという記述があります。今回はこの山の辺の道を歩いてみたい!ってのが石上神宮に行きたかった動機でもありました。
物部氏と出雲の関係
私が山の辺の道に興味を持ったのは、
「石上神宮と大神神社が道でつながっているのは
何を意味するのか」
改めて考えてみたかったからでした。
大神神社は古代ヤマト王権がこの地を支配する前から崇拝されてきた日本最古の神社。その昔は本殿がなく、三輪山そのものを御神体としており、主祭神はオオモノヌシです。崇神天皇の御代で疫病が流行った際、夢の中にオオモノヌシが現れてみずからを三輪山に奉るように要求します。
オオモノヌシという神は出雲神話で活躍するオオクニヌシとの関係が深く、『日本書紀』でオオクニヌシとオオモノヌシが同一のものとされています。古代のヤマト王権にとって「いかに出雲の勢力をいかに鎮圧するか」は重要課題でした。物部氏はその重要課題にも大きく関わっている古代豪族です。
『日本書紀』によると崇神天皇の御代に物部氏の一族の遠祖が出雲国に赴任し、出雲国の神宝をヤマト朝廷に献上させています。その倉庫となったのが石上神宮でした。古代の神宝は剣などの武器が多かったため、石上神宮は武器庫としての重要度が高まり、神宝を警備するためにも物部氏は軍事力を蓄えるようになります。石上神宮の御祭神が剣の神・布都御魂大神(ふつのみたまおおかみ)であることも、このような背景が関係しています。
物部氏の落日
大神神社を崇める古代ヤマト朝廷と山辺の道でつながっていた物部氏。天皇の皇位を継承する大嘗祭における鎮魂の儀でも重要な役割を担ってきました。山辺の道は今では素朴な自然道ですが、古代は重要な伝達や物流があったことと思われます。
ところが、物部氏が強かったのは5世紀末から6世紀前半くらいの話で、仏教が伝来した頃から急速に廃れていくことになります。
敏達天皇の頃から日本では天然痘が流行し、仏教を推進する蘇我馬子と、神道を推進する物部守屋が対立するようになっていきます。この対立は用明天皇の後継問題にまで影響し、結果的にのちの推古天皇を支持していた蘇我馬子が勝利。ここで物部氏の本家はほぼ滅亡しますが、石上神宮を奉祭する傍系の一族が残り、天武天皇に重用された物部麻呂が石上に改姓します。こうして石上神宮が今に伝えられていくことになりました。
歩いてみたことでわかったこと
では、そんな栄枯盛衰の山の辺の道を、はりきって歩いてみましょうー! といきたいところですが、この日は4歳の息子を連れおったので歩く距離に限界がありました。
石上神宮から約15km先の大神神社まではやっぱりムリ。東乗鞍古墳あたりで下山して、石上神宮の駐車場まで戻るのが精一杯でした。(駐車場まで戻らなあかんので、山の辺の道は徒歩と電車で行くのがいいんだろうな、と思いました)
ただ、ちょっとでも歩いてみたことでわかったことは、以前「山を見えると落ち着く」てことをこのブログでも書いているのですが、とはいえ、山の中に入ると「恐ろしい」という畏怖もまた感じること。一人で薄暗い山の中を歩くのって結構怖いだろうなあ。この辺りは古墳がバンバカあるような「王家の谷」みたいなところだし。
(『王家の紋章』のマンガの主人公がピラミッドで古代絵画に描かれている兵士と目があって、古代へ引きずり込まれるシーンが脳裏に蘇ってしまいました 笑)
ともかく本能的な畏怖を感じたのは久しぶりな気がします。遠目には緑の美しい山でも、足を踏み入れると天気が急変して災いが起こることもあるわけですから。古代の人々が山を御神体と仰いで恐れ敬ってきたことが改めて身にしみる思いでした。
まとめ
・石上神宮と大神神社が道でつながっているのは、古代国家の中枢がそこにあったことを今に伝えている。
・山の辺の道周辺には、オオモノヌシ、モノノベシの名前が物語るように、畏怖すべきモノ(魔物や精霊)を崇めていた時代の空気感が残っている(と、私は感じました)。